国民主権ということ

日本には総理大臣の悪口を言う自由があります。
国家の品格曰く「自由なんていらない。しかし政府の悪口を言う自由だけは必要
というくらい、総理大臣の悪口をいう自由は最も守らなければいけない自由の一つなのです。
しかし、いや、だからこそ、

じゃあてめえやれんのか?
って言われたときにどう答えるのかってことを常に念頭においておく必要があると思う。
悪口を言うのは簡単だ。
切り口を変えればいくらでも湧き出てくる。
しかし、実際にかわりにやってみることは次元が違うほど難しい。
でたらめに難しい。
プロ野球の監督の采配に文句言うのと実際にプロ野球の監督をやってみるのと同じくらい難しさが違う。
しかも、実際にやってみるのなら、今度は自分が悪口を言われる立場になるのだ。


僕らは常に人の痛みを考えなければいけない。
総理大臣の悪口を言うためには、演説中に何百人もの人が自分を凝視する恐怖への不安と緊張で眠れない夜を想像しなければいけない。
わけわかんない悪口、陰口を週刊誌に書かれて、自分への中傷を読んだときの悲しさを想像しなければいけない。
自分の政策の結果で痛みをこうむった人による恨みを受け止める心の痛みを想像しなければいけない。
権力を持つということは、誰かを傷つける義務を負うって事だ。
だってそれが権力なんだもの。
僕は誰かを傷つけて生きていけるほど強くはない。
自分の顔の写真を改変されて悪口と変な猫の絵とを一緒にGIF画像作られて平気な鉄の心を持っていない。
(てゆうかあれ作った人、本人が見たらどれだけ悲しむか想像したこともないんだろうか?)
でも権力者ってのは、社会統治をする以上絶対に必要なんだ。
皆が傷つかないように、必要最低限の人が傷つけてすむように計算できて、それを実行できる人が不可欠なんだ。


んで。
人は漫画を描けなくても漫画家に「つまんねー」って文句を言う。
自分がフライ取れなくてもプロ野球選手がエラーしたら「それでもプロか!」と文句を言う。
自分が総理大臣をする能力が無くても「この無能が!」「この売国奴が!」と文句を言う。
でも、安倍さんに「じゃあてめえできんのか?」って言われたら、「できない」と言わざるを得ない。
しかし、僕ならこう言い返すだろう。「じゃあ、安倍さん、このテンソル方程式解けますか?僕はできますけど」
そう。少なくても、何かしら手に職つけている「その道のプロ」なら、言い返す権利があるだろう。
「俺にはあんたのやってることはできないが、これはあんたはできなくて俺にできる。
あんたが俺の仕事が気に食わないのなら文句言ってくれていい。だから俺にも文句を言う権利がある」
と。
どんな天才でも、世界中の残りの全ての人の全ての能力を凌駕することは不可能だ。
だから世界では分業がなされ、色々な職業に分かれている。
誰が大臣で誰が官僚で誰が魚屋さんなのかは平等たる主権者一人ひとりが職業選択を行った結果たまたまその通りになったに過ぎない。(選挙に当選したのがたまたまって言ってるわけじゃないぞ)
僕らは政治家の悪口を言う。それは決して冒してはならない国民の権利だ。
だが、それはあくまで、お互いに認め合えるプロだから言える悪口であって、「自分が悪口を言われたらどう思うだろう?」ということを念頭において言わなければならない。
(自分が総理大臣になったらすべての国民のいうことに耳を傾けるので誰も不満がでません!だから自分は文句言われません!って思っている人間は脳の治療をお勧めします。)
それが国民主権の意味だと思う。


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