なんとなく理解した

参考

戦争はなぜ起こるか5  『限定された平和』




「世界から戦争を消し去りたい」
というのは、日本人ほぼすべての切実な願いと言ってよいだろう。

じゃあ、世界から戦争を消すためには、どうしたらよいか?

この問題は、戦後日本で長い間大きく分けで二つの解決方法が主張されてきた。


A.この世に戦争があるのは仕方がない。
戦争があることを前提として、自衛隊を作り、
「なぜ戦争が起きるのか」、「戦争はどのように遂行するのか」
を研究して対策すべき。


B.戦争はよくないことです。
「戦争はダメ」これを言い続けていれば、
世界中の人が「戦争はダメなことだ」という見識で一致すれば、
戦争はなくなります。


この二種類がどちらも相当な力を持ちつつ、決してお互い交わることのないまま、
主張されてきたのが戦後の日本だった。
少なくとも北朝鮮の拉致が証明された2002年までは。


「世界から戦争を消し去りたい」思いは同じであるはずなのに、
主張Aの人とBの人は互いに殺し合いをせんばかりに対立してきた。


それはなぜかと言えば、Bの人がAの人を見下していたからだと思う。
もう少し正確な言い方をすれば、Bの人はAの人を「たましいの在り方に問題がある人」
だと考えていた。
「平和のありがたさを知らない愚か者」


Bの人は、Aの人の戦争があることを前提とするという哲学に対し、
「戦争があることを前提とするのは、戦争を認めているということ。
Aは軍国主義者予備軍である」という攻撃をした。


Aの人は、「戦争が悲惨だからこそ、戦争を研究するべき。
戦争がおこる過程が解明されれば、それを防ぐ手だてもおのずと明らかになる」
と主張した。それに対し、Bの人は、
「戦争を研究するとはけしからん。
戦争を研究するのは戦争が好きだからだろう。Aは異常者」
そう考えていた。


Aの主張の弱点は、
「戦争があることを前提とするのなら、戦争を減らすことはできるかもしれないけど、
無くすことは絶対にできない」
ということだろう。
だから、Bの人は、 「Aの方法で戦争をなくすことはできるのか?」
と聞いてきた。それに対し、Aの人の中でも誠実な人は、その誠実さから、
「無くすことはできないと思う。でも、減らすことはできるよ」
と言った。
もちろん、Bは「やっぱり無くすことはできないんじゃないか!だからAは無意味!」
と言ってきた。
Bの方法で戦争が無くせるのかどうかは問いもせずに。


Bの人の主張を支えてきたものは、言ってみれば、「信念」のようなものだったと思う。
「戦争が起きるかどうか」は個人の信念や感情とは別のはずなのに、そういうものが事実に優先するかのような発言を繰り返した。
生理的に戦争を忌み嫌っていたから、戦争を論じること、戦争があることを前提にすること自体が
「信念」に対する、許さざるべき犯罪だったのだろう。
戦争の被害者が「戦争で酷い目にあった。だから戦争の準備をする自衛隊は許されない
と語れば、それが神のお告げかのように妄信し、疑問を持つものには
「戦争の被害者を侮辱する行為!人でなし!」等のあらんかぎりの罵倒がなされた。
戦争の被害にあってもAを支持するものは「痛い目に遭ってもまだ洗脳がとけないどうしようもない愚者
という扱いだったが。


Bの人のはAの人の主張を捻じ曲げることでAの人を異常者扱いにしてきた。
Aの人の言う「戦争を起こす人は×○□という考えを持っていると考えられる」
と言う言葉が、
「私は×○□という考えを持っている」に意図的に改ざんされ、
「×○□という考えを持つAは異常者!戦争を起こす気だ!」
「戦争が起きるのは人間の性(さが)。だからこそ対策を真剣に考えよう」
という言葉が「戦争を起こすのは私の性」になり、
あげくのはてには「戦争を起こすのは私の基本的人権になった。
そうやってBの人はAの人の歩み寄りの努力をことごとく踏みにじり、ヒステリックにAを凶弾してきた。



これらは、別にレトリックでも例えでもフィクションでもない、ただの歴史的事実だ。
そして、僕は、Aを支持している。


先日亡くなった江畑謙介氏は「戦争がなくならないのは仕方がない」と考えていたが、
「戦争をしてはいけません」としか言わなかった人間よりよっぽど平和に貢献してきたと思う。


五百籏頭真さんも「戦いを忘れる国は滅ぶ」と言っているが、
「戦争反対」しか言わなかった人よりずっと平和のために働いていると思う。



ただし、日本では、少なくとも20世紀中は国民のかなりの割合の人がBを支持し、
Bが正解であると信じられてきた。何十年も。
今も大きくBの考えが爪痕を残している。


何が言いたいかと言うと、
かなりの国民が何十年も信じてきた「神話」、
今も根強い力を持つ「神話」
を、僕が批判したところでどうこうするのは不可能だってことだ。
いまさらだけど、なんとなく正体みたいなものが見えたので、
やっと分かった。遅すぎる、自分。


「現実的な判断」とは、そういうものだ。
ということで、外面には「そうだよねー、Bだよねー」と話を合わせておいて、
自国と同盟国はきっちりAの方針で守る

というのが妥当的な話の落とし所である気がする。


Bを支持する国は、支持すればいい。
僕は内政干渉や主権侵害はしない。
ただ、Bを支持して侵略されて蹂躙されたら、それは「自己責任」(嫌いな言葉だが)としか言いようがない。
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