「ゆとり教育」なんてクソくらえ

改憲でも共謀罪でも核武装でも賛否両論ありますが、こと「ゆとり教育」については、ほぼ反対の立場の声しかありません。
学ぶべきことを減らしても、授業時間まで減らしたら結局授業のスピードは変わらないわけで、全く「ゆとり」になっていない。
何やるのかあいまいで、適当な感じで決められた「総合的な学習の時間」。
まともに取り扱っている学校はほとんどないとか。文科省は色々いいわけしていますが、これを真面目な教育としてやる気なら、まずは「総合」の教職用の講義を大学で開講し、「総合」の教職免許を取得した人を全国の学校に配置してからやるべきだったでしょう。国語や数学の先生の片手間にやらせている時点で「文科省は総合をまともな科目として考えていない」ととられても仕方がないでしょう。
実際に行われているゆとり教育の内容を知れば知るほど、文科省はただ子供に「お前ら、勉強するな」と言っているようにしか聞こえません。
文科省は何がしたいんだ?子供に勉強するな!というメッセージを送り続けて何が楽しいんだ?
日本を荒廃させることが目的なのか?
ずっと疑問でした。
その疑問がやっと解けました。


以下、引用。


元教育課程審議会会長の三浦朱門(言わずと知れた曽野綾子さんの旦那)の発言・・・


学力低下は予測し得る不安と言うか、覚悟しながら教課審をやっとりました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。それが”ゆとり教育”の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ」


なるほど。確かに一応筋は通っています。才能がない人、努力をすることが嫌いな人に多大なお金をかけて教育をしても無意味。そんな金があるくらいなら才能がある人に回す。才能がある人は一部だから惜しみなく金をつぎ込んでエリートを作り上げられる。
しかも、表現の仕方がうま過ぎます。「エリート教育」なんていったら出来ない人の反発は必至でしょう。そんなときに「勉強なんかができても幸せじゃない、そんなことより生きる力が大切だよ。ナンバーワンよりオンリーワン。勉強が出来なくても君はすばらいい」とか言っておけば、全く根拠のないプライドだけがふくれあがって勝手に負け組みで満足してくれます。空疎なことを言っておだてておけばどうせアホだし教育の機会を奪われたことを恨みもせずに政府に追随してくれるんだろう、そう考えているんでしょう。
この「ゆとり教育=エリート教育」の公式を今の実際の日本に当てはめると、


まず、生徒に勉強するな!と言って、公教育を徹底的に破壊する。するとまともな家庭は教育を私立で受けさせるようになる。当然私立受験戦争は過熱し、才能のある人間は公立には行かなくなる。そして公立では適当に遊ばせて肥大したプライドだけは成長させるが予算は縮小する。その分私立の難関校にありったけ金をつぎ込む。現在の公立学校から東大来ているような人間に小学校からエリート教育すれば、特に急がなくても生徒のペースに合わせていけば中3には余裕で高校の学習範囲が終わるだろう。高校では十分に多角的で高度な勉強が出来つつ受験も遊びながら通るようになる。そういう教育を受けた超優秀な人間が日本を引っ張ってくれれば、日本はまた世界のトップの国になる。ぱちぱちぱち。



ヘドが出るぜ。
確かに、勉強に関して言えば僕が公立小中で学んだことなんてほとんどない。ただ退屈な話をずっと座って我慢して聞いてただけだ。しかし、公立小中で学んだ地域との結びつき、成績が悪くても素晴らしい友達との交流、どうしても分かり合えない友達と取っ組み合いで喧嘩したこと、そこから学んだことの意味は計り知れなく大きい。
ただえさえ今でも私立に行ってると言うだけで何の根拠もなく公立に行っている人間を馬鹿にするようなホームラン級の大馬鹿野郎がたくさんいる。小さいころから隔離されていい子ちゃんばかりの場所で育っても、勉強は出来るかもしれないが世の中を全く知らなくて、しかも「俺達支配する人、あいつら支配される人」みたいな主体思想がはびこるだけじゃないか?
しかも、これ私立にいけない人間はどうするんだよ。貧乏人はエリートになれないのか?貧乏な家に生まれればもう「実直な精神を養う」ことしか出来ない社会になるのか?人生さえ金でしか買えない社会がそんなにいいのか?



これについては、日教組を中心とする左翼勢力(もちろん共産党も含む)の罪にも触れなければならないだろう。かつてよき時代は、お金がある家では下宿させるなり何なりして番町小学校麹町中学校→日比谷高校→東大、お金がなくても県トップ高校→東大と、誰でもエリートになることが出来た。「機会の平等」があった。当時、日比谷高校(および多くの県トップ高校)は大学受験対策と言うものには全く縁の無い学校だった。ただ、素晴らしい教育をしている学校に入りたいと言う気持ちから質の高い生徒が集まり、結果として東大等の難関大学の合格者数が多いだけだった。
しかし、「受験戦争の緩和」という名目で、行きたい学校に行けなくするという悪魔の制度が設けられる。(東京都の学校群、広島の総合選抜、京都の小学区制など)。「15の春を泣かせない」という標語のもと、むりやり志望しない高校へ入学者を割り振ると言う方法で「受験戦争の緩和」が行われた。しかし、そもそも「受験戦争」の諸悪の根源は大学入試であることを無視していた。公立の一流校をむりやり潰すことで私立に志望者が流れてしまうことを無視していた。その結果、「12の春は泣きまくり」(私立中学受験に拍車がかかり、中学受験に「受験戦争」がシフトした)「18の春は泣きまくり」(公立ではまともな教育が受けられないため大学受験に太刀打ちできなくなった)という悲劇が起きた。
「結果の平等」を求めたあげく、逆効果になり「機会の平等」まで失われてしまった典型である。
まあそういうわけでいい教育をする古きよき高校は廃れ(生き残っているのは名古屋市旭丘高校くらいか?)、(都心部での)公立高校はただ受験マシーンを作るだけのえせ予備校もどきか
すでに「教育」することをあきらめた単なるモラトリアム人間の遊び場になってしまった。
(東大10人受かったとか言って小躍りするような日比谷は日比谷じゃない!)
しかしまだ地方では、「教育」をしている伝統校がたくさん残っている。「伝統」と言うのは一朝一夕で作り出せるものではない。うまくいえないけど、上級生から下級生へ綿々と伝わってきた学校の「校風」、端から見れば馬鹿みたいなんだけどなぜか残っていてめちゃくちゃ楽しい伝統行事、そういうものは文科省の夢見るエリート校には絶対真似できない。そして、文科省にはそういう地方伝統校(都心の伝統校は既に破壊しきったからね)が邪魔で邪魔で仕方がないと思う。あらゆる手段を使って潰しにかかるだろうが、何とか持ちこたえて欲しいと思う。


結論。
平等」とは、勉強のできる奴に「勉強するな」と言うことではない! →同意の方は人気blogランキングへ


「エリート」とは、ただ「勉強のできるやつ」のことを指すのではない! →同意の方は人気blogランキングへ


大学入試という諸悪の根源を取り除かない限り、一切の「結果の平等」は逆効果にしかならない! →同意の方は人気blogランキングへ


補足。
僕は「エリート」という言葉を悪い意味では使いません。僕の「エリート」という単語の使い方に疑問を感じた方は、まず→自分で「俺はエリートだ!」なんて言ってる奴なんているわけ無いだろ をお読みください。