民主主義の心とは

僕は民主主義者であり、民主主義を支持している。


といっても、結構政治についてガチで一通り考えた人でないと、
「民主主義?そんなもん正しいに決まってるじゃん!自分も支持するよ!」
とかテキトーな思いで、民主主義とは何か知らずに、何も考えずにただ
「何となく支持」って人が多いんじゃないだろうかって思う。


付け加えると、「民主主義は大切」って言ってる人でもかなり多くの人間が
民主主義を理解していないだけで、実は非民主主義者(全体主義者)だったりすると思うのだ。




ってわけで、民主主義者とは何ぞや?


てなことを考えてみたい。









僕の定義では、民主主義者ってのは、「民主主義の心を大切にする人間」
のことだと思う。
(いや、もちろんこれは俺様定義だよ。それは全く否定しない。


ある特定の非民主主義者の集団の好きな言葉で言うと、
「ぼくのかんがえたみんしゅしゅぎしゃ」でしかない。
それは本当。)






そもそも、民主主義とは何か。


民主主義とは「Democracy」を翻訳した単語であり、国民全員の投票(多数決)によって意思決定がなされる政体のことを言う。
国民全員の投票で直接意思決定をすることを「直接民主制」、国民全員の投票によって意思決定の投票者を選出することを「間接民主制」と言う。
どちらにせよ、国民全員が一人一票を持つ制度のことを民主主義という。
ここから、「民主主義の心」が見えてくると思う。



民主主義の心・その1
民主主義は、一人一人の間に優劣をつけることを認めない。


民主主義では、どんな人間も一人一票を持っている。
民主主義への愛とは、平等への愛である。
選挙権のある人間なら、人種、民族、性別、学歴、IQ、年齢、知識、経験、あらゆる人間が一人につき一票を持つ。
「優秀な民族は一人で1.5票、劣等な民族は一人で0.5票」なんてことは認めない。
あらゆる人間は民主主義において、全て平等、絶対的に平等である。



民主主義は、「賢者」「愚者」の区別を認めない。
「学問的素養のある人間は一人で2票」なんてことは認められない。
なぜなら、「賢者」「愚者」の区別ほど危険なものはないからだ。



かつて、オウム真理教は、オウム真理教のありがたい教義に従って、サリンを播いた。
要するにオウム真理教の価値観によれば賢者は愚者をポア(死刑)するのが正義だったわけだ。
オウム真理教のありがたい教えによれば。
オウム真理教の価値観によれば、「賢者」とは麻原彰晃の言うままにサリンを撒く人間のことである。
しかしオウム真理教じゃない価値観によれば、そんな奴らは賢者と呼ぶに値しない。
異なった価値観がぶつかり合ったとき、「賢者」か「賢者でないか」を決めるのは、結局のところ「国民の全員(多数)が賢者と認めるか否か」
民主主義的に決めるしか方法がない。
民主主義的にしか「賢者か否か」を決める方法がないのなら、民主主義で「賢者」を設定することは無意味である。



民主主義は、「善人」「悪人」の区別を認めない。

「自分はマイノリティである。マイノリティはマジョリティに対抗するためには、法を破ってもそれは正当」
とか言うことをのたまった人がいる。
おそらく、彼の中で(意識的にか無意識的にかは知らないが)
マイノリティ=弱い=善人、マジョリティ=強い=悪人 という思考回路ができていて、
「善人が悪人をやっつけるためには法を破ってもそれは正当」という意味なのだろう。

しかし、上のオウムの例を見ても分かる通り、マイノリティ=善人とは限らない。
オウム真理教信者は、マイノリティである。
しかし、オウム真理教がマイノリティなのは、別にオウムが清く正しく美しく慎ましいからマイノリティなわけではなく、
ただその教えがイカレテいるからマイノリティなだけである。



清く正しく美しく慎ましいからマイノリティになった集団と、行かれているから多数に引かれてマイノリティになった集団を見分ける方法はあるか?
そんなものあるわけがない。
あるとしたら、国民全員(あるいは多数)が認めた場合、ようするに民主主義的に決まったときだけだ。
よって、清く正しく美しく慎ましいマイノリティはかわいそうだから一人二票あげましょう、善人だから特権を与えましょうなんつーことはありえない。
あくまで、人は平等である。





民主主義の心・その2
絶対的な正義、本当に大切な事なんてものは存在しない
そもそも、民主主義というものは、もとはと言えば戦争代替手段である。
戦争は正義と正義がぶつかり合う。
「正義の反対は、もう一つの正義なんだ!」と誰かが言ったが、まさしくその通りで、絶対的な正義なんて存在せず、
あるのは各の持つ別々の正義である。
正義と正義がぶつかり合う時に、人の世では戦争が起き、戦争の勝利者が「本当の正義」を勝ち取る。
しかし、現代ではいちいち殺し合いをして互いに消耗してはかなわんということで、
「頭を割るのではなく、頭を数える」
要するに実際に人を殺すのではなく賛同者を多く得た方を「正義」として採用しよう、ということである。


つまり、あくまで、より多くの人数を得た正義が「よりマシな正義」に認定されるだけで、
国民の多数の意見が変われば、その「よりマシな正義」は正義の座から転がり落ちてしまう。
「絶対的な正義」は、その意味で存在しない。
どんなに偉い人が「これは絶対に正義だ!」と叫んだところで、
国民の大多数が正義と認めないようになれば、それは既に正義ではない。
あるのは、「よりマシな正義」だけである。



民主主義の心・その3
民主主義の尊重とは、お互いの尊重である
戦争が終われば、敗者は消滅する。
よって、敗者のその後を心配する必要はない。
しかし、民主主義の敗者(多数決で少数派になったもの)は、消滅せず、存続する。
また、一たび民主主義の勝者(多数派になったもの)も、次の意思決定で勝者になるとは限らない。
意思決定の数だけ、「賛成/反対」の数があり、その度にマジョリティとマイノリティはコロコロ入れ替わる。
マジョリティ(多数派)は、マイノリティ(少数派)に向けて傲慢に勝利宣言をしてはならない。
次は自分がマイノリティ(少数派)になるのかも知れないのだ。
だから、民主主義が存続する限り、お互いを尊重することが求められる。
相手を尊重しない人間は、相手からも尊重されない。
その意味で、「少数意見の尊重」というものが、非常に重要になる。
あるのは、よりマシな正義だけなのだ。
多数派がA案を支持していて、少数派がB案を支持しているとき、
戦争によって少数派が絶滅するという仮定においては、A案をゴリ押すのが正しいだろう。
しかし、少数派も存続する民主主義社会においては、
多数派も少数派も満足するC案を考え出すのが、A案より、「よりマシな正義」である。




ただし、「少数意見の尊重」というのは、あくまで「相互尊重」の延長線上にある。
どっかの自称マイノリティが、
「自分の意見は少数意見だから尊重しろ。しかし、自分はお前ら(多数派)の意見は尊重しない。」とか
「お前ら(多数派)と自分の意見が違うのは、お前らが馬鹿(無知)だからだ。」とか
ほざくのなら、そんな奴の意見はとっとと無視しちゃえばいいと思うよ。


今のを言いかえると、
「10人のうち1人が違う事を言ってたら、その1人の言うことを真剣に考えるというのが本当の民主主義」
という言葉は真実である。
真実であるが、この言葉が真実なのは、あくまで「違うことを言っている1人が残りの9人の言うことを真剣に聞いている」場合に限る。
「俺はお前らの言うことは聞かないが、お前らは俺の言うことは聞け」っていう態度では、誰も話を聞いてくれないよって話。







話は変わるけど。
どっかの馬鹿(「とうとう遵法精神さえなくしてしまいましたか」に対して)

とうとう現国レベルの読解力さえなくしてしまいましたか

どっかの馬鹿(僕のことをさして)

単に中学校の公民レベルの知識がない、ということだと思います。


こういう、


自分と意見の違う者がいる場合、そいつが無知である


っていうの、民主主義が嫌いな人がよくこういう発想しますけど、それってどうにかならないんでしょうか?

例えば、僕はどっかの馬鹿相手に東大模試の現国で勝負したり、センター試験政経で勝負したら
たぶん圧勝できる(たぶん、ですけど)と思うんですが、何を根拠に僕の事を現国レベルの読解力がないとか中学校の公民レベルの知識がないとか
ほざけるのしょうか?




「民主主義社会において、マイノリティがマジョリティに抗議するのに、法を犯してもよいか?」
という命題に、「道路交通法レベルで別件逮捕」ならまだしも傷害罪だったら、
民主主義で決めれば「No」が圧勝すると思う。


能力主義的な優劣の決め方(属人的な内容でなく共通のルールに則った試験でよい点数を取ったものが「優れた人間」とする)
でも、僕が圧勝すると思う。




彼は、彼の決める彼の中の正義において彼自身を「賢者」と見て僕を「愚者」だと見ている。
僕は、僕の決める僕の中の正義のおいて彼を「愚者」だと見ている。


その観点においてはイーブンだと思うし、
その上で意見に優劣をつけるのなら民主主義的に決めるか能力主義的に決めるかしか無いと思うのだが、
何を持って彼は僕を「愚か」だと決めつけているのでしょうか?



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