違う種類の人間

プリンスホテル「真摯に受け止める」 港区が事情聴取




 日本教職員組合日教組)の教育研究全国集会をめぐり、グランドプリンスホテル新高輪(東京都港区)が会場使用を拒み、組合員の宿泊予約を解除した問題で、プリンスホテルの渡辺幸弘社長は28日、港区の事情聴取に「反省している」と話し、初めてホテル側の非を認めた。


 これまでプリンス側は「旅館業法違反にはあたらない」と主張していたが、区が宿泊予約の解約は同法に違反するとの判断を伝えると、渡辺社長が「真摯(しんし)に受け止める。旅館業法に違反するということはしっかり反省すべき点と考えている。今後は関係者の信頼を得るために努力する」などと述べた。


 区は4月4日までに再発防止策の提出を要請。具体的な内容を検証し、4月中旬ごろまでに行政処分が必要か、行政指導にとどめるかの結論を出す。



アサヒ・コムより。正直な話、僕は日教組が嫌いだ。大嫌いだ。日教組の集会があったら、そこで偶然地震が起きれば、日本がもうちょっといい世の中になると思う。
しかし、プリンスホテル日教組が拒否された件は、日教組は何も悪くない。
これは、一方的にプリンスホテルが悪い。この件に関して言えば、日教組を責めるべき理由、プリンスホテルを擁護するべき理由は一切見当たらない。
これは、プリンスホテルの「街宣右翼が騒いで客の迷惑になるから」って理由が本当なら、
一番悪いのが断トツで社会のゴミである街宣右翼であり、
二番目に悪いのが、一旦契約をすませたのに正当な理由なく契約を一方的に破棄したホテルである。
日教組は、一方的に被害者であり、この件において右翼やホテルを称賛する人間は頭がおかしい。




問題作『靖国 YASUKUNI』次々と上映中止で東京公開断念に…

 [シネマトゥデイ映画ニュース] 「靖国神社」の現実と精神構造に、『味』の李纓(リー・イン)監督が挑んだドキュメンタリー映画靖国  YASUKUNI』の上映を自粛する映画館が相次ぎ、当初の公開(4月12日)をやむなく中止にすると配給元のナインエンタテインメントとアルゴ・ピクチャーズが発表した。自粛を決めた劇場は、新宿バルト9に続いて銀座シネパトス、渋谷Q-AXcinema、シネマート六本木、シネマート心斎橋(配給会社の発表による)。

 同作は先日の香港国際映画祭では最優秀ドキュメンタリー賞を受賞し、李纓(リー・イン)監督も日本での公開を切に望んでいた。配給元は、「このような事態に陥ったことを大変遺憾に思いますし、日本社会における言論の自由表現の自由への危機を感じております」とコメントを発表した。

 また、配給元では今後も上映に向けて働きかけていくとコメントしているが、今のところ上映の見通しはたっていない。今後のことについては緊急の記者会見を設けるとのこと。


映画『YASUKUNI』に関して、僕はその中身を見ていないが、集めた情報から判断すれば、次のようなカンジらしい。


・監督は中国で自由な活動ができないからわざわざ日本に亡命してきた映画監督で、親日家。
・映像にはそこまで政治的な主張があるわけではなく、靖国神社に係わる色々な人を映し出し、「あなたはどのように考える?」というメッセージを突き付けるような内容。
靖国に死ぬ程心酔している人間、死ぬ程嫌う人間が出てくるが、その人達に賛意するでも反感を覚えるでもなく、「そういう人もいる対象を見て感じ取ってほしい」



これが「反日映画」だという話がでてきたのは、正直な話、
「30年前に言った事を今さら裁判所で告訴しても時効なんだけど」っていう当り前のことを言うだけで「反日」扱いする、

こいつの定義に従えば日本人のうち99パーセントは反日になるんじゃないかってくらいぶっちぎれた頭の、


Queen of真性純粋イカレ脳
稲田朋美
さんが検閲まがいなことをやったからなんですが、
これで映画を見て反感を覚えるならともかく撮影中止に追い込んだことで歓喜している人間は、理解できない。
正直言って、これはれっきとした言論弾圧であり、日本が文化的に退化する端緒になるだろう。


こういった事件に対してグッドジョブとか言っている人間は、たぶん、僕とは良心が違うんだろう。
心の在り方が違うんだと思う。
彼らも、普通の人が笑うような場面では、笑ったような顔を作るかもしれないし、
普通の人が悲しむような場面でも、「泣く」ような状態になるかもしれない。
でも、僕が「心」と呼んでいるもの、「良心」と呼んでいるものと、
彼らが「心」、「良心」と呼んでいるものはまったく違うんだろう。
たぶん、僕は彼らと話をすることができない。僕が何を言おうと、彼らの心に言葉を投げかけることは不可能だし、
彼らが何を言おうと、僕は彼らの発した言葉の意味が分からないだろう。
人間は、自分の心の中身を「言葉」に置き換えて話し、その「言葉」を受け取った人間がその「言葉」を自分の心に置き換える。
僕等が言葉でコミュニケーションできるのは、自分の心と相手の心が同じものであるっていう前提があるから、言葉を交わすことができるわけで、
彼らとは心が違うのだから、彼らと言葉を交わしてもコミュニケーションをすることは不可能だろう。


僕は彼らに何も望まないし、僕の方も、ほっといてくれ。
あなたと僕は、違う種類の人間なんだ。
会話をしようとする努力は、ただ無意味に終わるだけだ。



とりあえずいつもは「街宣右翼は暴力行為で愛国心を恐いものだと思わせるための朝鮮人の自作自演」って言ってるのにこういうときは街宣右翼の暴力恐喝行為を称賛するネトウヨって、全員中身朝鮮人だよね→人気ブログランキングへ