東大生はなぜ「一応、東大です」と言うのか?

新保信長著、
東大生はなぜ「一応、東大です」と言うのか?
読みました。

おもしれえ。

でも、もしかすると、この本を面白いと思うのは僕が東大だからかもしれない。
※僕は東大生である
東大ってさ、東大だよね。
京大や一橋に比べて「東大」ってなんか違う。
それはたぶん、メディアが作り上げたもう一つの「東大」が別にあるんだと思う。
「イヤミなやつ」というキャラクターづけしたいがために田舎もの=東北弁と同レベルの安易さでイヤミなインテリに東大出身と設定するドラマとか、
天才児と言えば定番で「東大目指してます」だったりとか。
とにかく、極端なんだよね。
人間味が感じられないとか言って徹底的にこき下ろすか、または「ドラゴン桜」みたいにアホみたいに神聖化するか、だし。
だから東大に変なイメージができちゃってる。
皆さんはどうですか?
皆さんがイメージする東大生ってこんなのだったりしません?
「趣味は円周率を暗記すること」
「テレビはNHK教育以外一切見ない」
バスケやるとボールの運動方程式を解いてからフリースローする」


僕は子供のときそんなイメージでした。(そのころまさか自分が東大行くなんて思ってなかったし)
たまたま行った床屋のおっちゃんと話してるとき、水戸黄門の話になって、
「へえ、東大生でも水戸黄門知ってるんだ、珍しいな」
と言われたことあるし。
(かけてもいいですが、絶対そのおっちゃん、今まで水戸黄門を知らない東大生にあったことがあるわけじゃないと思う)
この本はそんなイメージ像を笑ったりとか、東大を誤解させるような極端な本や雑誌にツッコミを入れたりとか、でもやっぱりよく考えるとヘンな東大生の実態を笑い飛ばしたりしています。
日本国民が「東大」で遊ぶさま、その遊びを「東大生」が逆手にとって利用するさま、そんなのがゆるやかでほんわかしたタッチで描かれていて、とても楽しい本ですね。

さて、ステレオタイプに描かれることが多い東大生ですが、実際はいろんな人がいます(よく考えれば当たり前なんだけどね)。
でも、その多様な東大生は、ある一言を投げかけてやると非常に喜ぶという共通点があります。
それは何でしょう?






 答え:「東大生らしくないね」
東大生は、一般に流布している「東大」のイメージを重々承知しており、それが好ましくないイメージであることも了解している。だからそう言われると、純粋に喜びます。
いっぺんやってみ。




 バイト先に東大生がいるあなた、あなたは、とてもラッキーです。なぜなら、あなたは何かミスやらかしても絶対に自分の責任にはなりません。
どういうことかというと、「おい、これどうなってるんだ!」って店長に怒られたとしたとき、
「それはあの東大が〜〜だからあいつの責任ですよ」と言っとけばいいんです。
もし東大くんが「は?ふざけんなよ、お前が悪いんだろ」
と言ってきても大丈夫です。

「ああ、そうやって人のせいにすればいいよな。お前はエリートなんだから。どうせ俺は偏差値低いからお前からみればゴミみたいなもんだもんな〜。あ〜あ、偏差値高いっていいよな〜」

とか言っとけば、泣きそうになるかもしれませんが、彼が罪をかぶってくれます。
東大生優しいですからね。間違っても「寝言は寝て言え低学歴」なんていうことはありません。


でも、これは笑い話ですむけど、「偏差値低い」の部分を「部落」とかに変えると極めてシャレにならなくなる気がするのはなぜだろう?



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